読み方チェンジ

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写真は本文と関係ありません。大きな苔玉

社会人になって本のおもしろさに目覚めたのは、インターネットで知り合った読書家たちのおかげで、まずはSFから入り、その後ラテンアメリカ文学マジック・リアリズムの虜になった。知らない世界を写実的に描写しながら、突然非現実的な事象が入り込んでくる不思議さ、スリルに魅了された。『百年の孤独』『緑の家』『ペドロ・パラモ』挙げればきりがないけれど、その背景には貧困も共感の要素としてあったと思う。本に恵まれなかった(何せ小学校の図書館には普段鍵がかかっていて入れなかった!)学生時代から社会人に至るまで、金銭的に楽な環境になったことがないから、つい貧しい人々を描いた物語に共感しがち。

 

そして数年前、「ラテンアメリカ文学は終わった」と自分の中でかたがついた。世間的には亡くなったけどボラーニョ・コレクションがあるし、白水社などからラテンアメリカ文学は継続的に出版されている。でも、自分にとってラテンアメリカはあまりにも遠すぎた。体力があるうちに行ってみたいと思ったことはあっても、当時存命だった猫を置いていくこともできず、そもそも海外旅行にふらりと行けるほど余裕もない。

 

気づくと、自分の読む速度がぐっと遅くなっていた。学生時代は小野不由美十二国記』なんて1日4冊くらいするりと読んでしまうくらいのスピードだったのが、加齢のせいか、はたまた注意深さなのか、1日1冊なんて全く夢のような話。もちろん、読んでいる本が変わったことも大きい。社会人になってから手に取った本の半数以上が翻訳書だけれど、未だに翻訳書を読む速度が上がらず、日本の小説の方が早く読める。これは内容の問題なのか、選ばれている言葉なのか。

 

それでも本を絶やしたことはなく、日々本を読んできた。趣味というよりは恐怖心が動機かも。本を読まないと何かに流されてしまうような気がする。口頭で応えるときは「頭が悪いのでこれ以上悪くならないように本を読み続けている」と言うだろう。次第次第に、小説から法律や経済、哲学などの本も手に取るようになった。同じサークルの哲学科の人に勧められて手に取ったベルグソン『笑い』は、学生当時さっぱり分からずその人へのコンプレックスにさえなったのに、今ひもといてみると分かるとは言わないまでもふむふむなるほどと苦痛にならずに読み進めることができる。もしかしたら当時は旧訳だったのかもしれないが、何年も本を読み続けているといわゆる読解力というやつが少しは発達しているようだ。

 

今はプルーストに取りかかっている。フランス文学なんて全く縁遠かったのにプルーストなんて。とっかかりは共和国から出た『収容所のプルースト』。単にプルーストを愛する学者の講義としても読める上に、参考文献どころか著書そのものも閲覧できない収容所で、記憶だけであの長大なプルーストを語るなんてことが人間にできることに感銘を受けた。それほどまでに人が愛するプルーストを一度は読んでみたい。しかし取りかかったはいいものの、一家族の細々としたことを読んで何がおもしろいのか。マドレーヌで記憶が押し寄せてくるのはいいが、押し寄せてくる記憶が読者のわたしにとって何の意味をもつのか。100年前の人の気持ちを生で受け止めるほどの器がないわたしには、プルーストと並行してプルーストが影響を受けた本も合わせて読むべきだ。そこで古本屋でいくらでも揃うだろうに、敢えて新刊書店でパスカル『パンセ』の上中下を買ってみた。1600年代のTwitterとも言うべき箴言が続々と並び、プルーストを放り出して読みふけってしまう。


若い頃はおもしろいと噂になった本を片っ端から読んでいったが、そろそろ読んでおくべき本を見いだしてそこにじっくり取りかかるべき時が来たようだ。