キャントリード小説

大学に入ったとき、それまで1日1冊くらいのペースで読んでいた本が、さっぱり読めなくなった。今から考えれば環境が変わったことでホームシックになり、そのまま放置したことでちょっとした不安障害、自律神経失調症のような状態になっていたのだと思う。本が読めないものだから当然大学の授業にはさっぱりついていけなかったし興味ももてなかった。

そして社会人になり、読書を通じて「掲示板」で知り合った人たちは皆博識で、小説を楽しんでいた。あ、本を楽しく読んでいいんだ、という当然のことがあまりにも新鮮で、自分も彼らのように楽しく本を読みたいと願った。するとdasaconに参加することになり、読書会を続けて気づいたら何年もたっていた。

ところが、ここにきて再び小説が読めなくなっている。仕事の忙しさからくる不安障害というのが医者の見立てだ。本が好きだからやっているような仕事なのに、本が読めないというのは困る。それに読書会も続けられない。

実際に読めないわけではなく、読んでも他人事に思われ感情を揺さぶられることがないという状態。話題の『文藝』も読んでみた。韓国の小説にそれほど興味がないというのも大きな要因かもしれないけど、人間同士のつきあいとか青春の無鉄砲さとかが全て無為に見えてくる。西加奈子「韓国人の女の子」も共有していた過去の大事な幻想が失われれる決定的な瞬間を描いているというのは分かる。分かるのだが、そこに共感できない。あまりにも濃密な関係性にうんざりしてしまうのだ。

MOMENT JOONの「三代(抄)」も徴兵制といじめ、自己否定をすごく上手に描いているというのは分かる。分かるけれども共感できず、韓国人でなくてよかったと安心する自分がまず先に立ってしまう。ラップも小説も、選ばなければもっと楽に生きられるだろうと語り手の父親と同じ視点にたってしまう。なぜ選んでしまうのか、理由などなく選んでしまう自分を変えられないだけなのだろうが、それでも共感ができない。学生時代に2Pacやビギーが殺され、Zeebraキングギドラには感銘を受けた口だが、わたしはそちらの道を選ばなかった。かっこいいけど、主張が強すぎて音・リズムとしてしか聞けず、意味を受け取りたくなかった。

わたしはこんなに小説に共感しないと読めないスタイルだったろうか? そこがたかだか数ヶ月前までおもしろく読んでいたはずなのに分からない。予兆は去年の仕事が忙しい頃からあって、好きだったウィリアム・トレヴァーのとっておいた『ふたつの人生』が最初からおもしろいと思えなかったのだ。家族、階級、頑なに困難を選ぶ人々、すべてにうんざりしてしまう。もっと楽していいんじゃない? でもそうではない、登場人物たちは自分の土地を離れることができなかったり、仕事を21世紀のようにすらりと変えたりできない人たちだ。実家の同じ話を繰り返す老人につきあっているようだ。

きっと人間に接触するのに疲れてて、人間を描いた物語が入るべき場所の脳みそが飽和状態なのだ。仕事は落ち着きつつあるし、病院でレキリタンという薬をもらって夜はぐっすり眠れるようになった。それでも小説を読めない、楽しめない、寄り添うことができない症状だけが続いている。これは薬で治るのかな?