殺されキュリオシティ

小説を読むのに疲れた割には、ノンフィクションはぐんぐん読んでいる。でも、気づいたらなぜか岩波新書が多い。歴史を客観的に見るというよりは、データを並べて現在に立ち向かう感じの本が多いような。ただの印象です。

『幸福の増税論』、増税に幸福なんてないだろうと頭ごなしに決めつけずに読んでみた。この中に、所得格差が広がると貧困層が社会の成員になれず、「『社会の生命』が失われる」とある。 社会にも生命があるという考え方を初めて聞いたので驚いた。生命とはなんぞやから始めてしまうときりがないので、比喩としての生命だと思うんだけど、たぶん働いても意味がない・成功する可能性が見えない社会のことを「生命がない」と言ってるんだと思う。

今でもふつうに働きながら素敵な同人誌を作ったり、コケを育てたり、楽器を演奏するなど能動的に楽しむ人たちはたくさんいる。むしろWebがあるからむかしより増えているはず。でも、能動的な楽しみを持たずに好奇心を感じられず、日々家と仕事場を往復しているだけという人もたくさんいるのだろう。

むかしの物語や詩には来世への希望がよく出てくるが、2019年に生きるわたしたちの中で信じている人がどれほどいるのだろう? 現世がつらくても来世への希望があるから、人々は苦しい労働に耐えたり祈ったりして社会をつなげてきた。今ようやく技術が進歩して苦痛が減ってきたというのに、生きることそのものがつらい人がまだたくさんいることが悲しい。

わたしの周りには自発的に楽しみを作れる人が多くて、尊敬するしかないんだけど、自分が彼らのようにものを書いたり音を奏でたりすることはできない。それでもそれに絶望せずに、彼らと共にあることができる幸運を喜びたい。なんだかんだで、喜ぶことにも技術がいる。

宝石を手にして

私は眠った

その日は暖かく 風も普通で

私はいった 「これなら大丈夫」

目をさまして 正直な手を叱った

宝石は消えていた

今はただ 紫水晶の思い出だけが

私のすべて

『ディキンスン詩集』(二四五番)(思潮社

キャントリード小説

大学に入ったとき、それまで1日1冊くらいのペースで読んでいた本が、さっぱり読めなくなった。今から考えれば環境が変わったことでホームシックになり、そのまま放置したことでちょっとした不安障害、自律神経失調症のような状態になっていたのだと思う。本が読めないものだから当然大学の授業にはさっぱりついていけなかったし興味ももてなかった。

そして社会人になり、読書を通じて「掲示板」で知り合った人たちは皆博識で、小説を楽しんでいた。あ、本を楽しく読んでいいんだ、という当然のことがあまりにも新鮮で、自分も彼らのように楽しく本を読みたいと願った。するとdasaconに参加することになり、読書会を続けて気づいたら何年もたっていた。

ところが、ここにきて再び小説が読めなくなっている。仕事の忙しさからくる不安障害というのが医者の見立てだ。本が好きだからやっているような仕事なのに、本が読めないというのは困る。それに読書会も続けられない。

実際に読めないわけではなく、読んでも他人事に思われ感情を揺さぶられることがないという状態。話題の『文藝』も読んでみた。韓国の小説にそれほど興味がないというのも大きな要因かもしれないけど、人間同士のつきあいとか青春の無鉄砲さとかが全て無為に見えてくる。西加奈子「韓国人の女の子」も共有していた過去の大事な幻想が失われれる決定的な瞬間を描いているというのは分かる。分かるのだが、そこに共感できない。あまりにも濃密な関係性にうんざりしてしまうのだ。

MOMENT JOONの「三代(抄)」も徴兵制といじめ、自己否定をすごく上手に描いているというのは分かる。分かるけれども共感できず、韓国人でなくてよかったと安心する自分がまず先に立ってしまう。ラップも小説も、選ばなければもっと楽に生きられるだろうと語り手の父親と同じ視点にたってしまう。なぜ選んでしまうのか、理由などなく選んでしまう自分を変えられないだけなのだろうが、それでも共感ができない。学生時代に2Pacやビギーが殺され、Zeebraキングギドラには感銘を受けた口だが、わたしはそちらの道を選ばなかった。かっこいいけど、主張が強すぎて音・リズムとしてしか聞けず、意味を受け取りたくなかった。

わたしはこんなに小説に共感しないと読めないスタイルだったろうか? そこがたかだか数ヶ月前までおもしろく読んでいたはずなのに分からない。予兆は去年の仕事が忙しい頃からあって、好きだったウィリアム・トレヴァーのとっておいた『ふたつの人生』が最初からおもしろいと思えなかったのだ。家族、階級、頑なに困難を選ぶ人々、すべてにうんざりしてしまう。もっと楽していいんじゃない? でもそうではない、登場人物たちは自分の土地を離れることができなかったり、仕事を21世紀のようにすらりと変えたりできない人たちだ。実家の同じ話を繰り返す老人につきあっているようだ。

きっと人間に接触するのに疲れてて、人間を描いた物語が入るべき場所の脳みそが飽和状態なのだ。仕事は落ち着きつつあるし、病院でレキリタンという薬をもらって夜はぐっすり眠れるようになった。それでも小説を読めない、楽しめない、寄り添うことができない症状だけが続いている。これは薬で治るのかな? 

「キャンバスに集う~菊池恵楓園・金陽会絵画展」@国立ハンセン病資料館

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www.hansen-dis.jp

 

草津に旅行へ行った時にどうしても見たかったのがチャツボミゴケ公園。ふつうの植物は苔に限らず硫黄を忌避するけれども、チャツボミゴケはどういう進化をたどったのか硫黄がないところでは生きられない。細胞内に取り入れることはせず、細胞の間に重金属イオンがあることで生きていけるらしい。未だに詳細が分かっていない不思議な苔。

チャツボミゴケ公園の近くに「重監房資料館」という施設がある。ハンセン病に関する施設だということは知っていたのだけど、今回、国立ハンセン病資料館の解説を見たら、重監房というのはハンセン病者隔離施設から脱走したり重大な懲罰を受けたりする人が送られる場所で、「草津送り」になると生きて戻れる確率はかなり小さかったらしい。時間がなくてその時には立ち寄れなかったのだけど、アウシュヴィッツという遠いところでなくても差別によって隔離され殺された人々がいたということに衝撃を受けた。

さて、新秋津から歩いて20分くらいの場所にある国立ハンセン病資料館では、2019年7月末まで「キャンバスに集う~菊池恵楓園・金陽会絵画展」が開催されている。ハンセン病の後遺症によって身体が不自由になったにも関わらず筆を包帯に巻き付けたり、中には舌に絵具をとってそのままキャンバスに塗ったりして描かれたという。会場の中央には「菊池野」という雑誌が展示されている。入所者の絵が表紙になっているのだ。わたしはまずこちらを見て、長く続いている月刊誌があることに驚いた。入所者にとって表現することの意義はとても強いのだと感じる。

壁に目を移すと、障害があるとは思えないような絵ばかりだ。素朴なものもあるが、中原繁敏さんが間近な死を自覚しながら描かれた遺作「命」はすごかった。灰色の途中が折れた木から小さな芽生えが出、木のうろにはまだ生命の脈動が天を目指している。懲罰の施設と一匹の猫が夜にひっそりとたたずむ「鎖」もすごい。

そして最も驚かされたのが森繁美さんの「根子岳」。朝の光なのだろうか、鮮やかで柔らかいピンク色から青、緑と続いていく色遣いがとにかく美しくてしばらく呆然としてしまう。どうしても差別を前提に考えてしまうと、虐げられた世界が暗い色でにじり寄ってくるようなイメージをもってしまう。特に展示されていた方々はほとんどが故人で、絵の手法は昭和の頃に学んだ方が多い。そこに鮮やかな山が現れた。ハンディキャップを全く感じさせない。

若い頃に隔離され、断種までされていたハンセン病患者の家族が差別を受けていたということで、国に賠償金を認めたのは今年2019年の話。まだ何も終わっていないのだと思う。わたしたちは差別心をなくすことなどできず、知ることによってしか緩和させることはできない。ぜひまた訪れてみたいと思います、苔も豊富ですし。

映画「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」

 数年前に猫との暮らしが終わってから、アニメを見る回数が増えた。前に誰かが言っていたのだけど、人間そのものが写っていると疲れるような、現実の延長上にいるようで疲れるので、実写ではなくアニメを見たくなるとか。最近そんな感じなのかもしれない。当時は猫が現実から守っていてくれたんだろう。

去年見た中でもとびきり泣いて、小説を買ってやっぱり泣きじゃくった「青春ブタ野郎」シリーズ。「思春期症候群」という若い人が非現実的な症状を発症することで、主人公は女性たちに右往左往させられる話で、人によってはハーレムものとして忌避しそう。ただ、このストーリーはすごく自然で、苦しんでいる人たちが助け合う中にも、軽口が混じって軽妙さと心やすさが出ているところがすごくいいと思う。猫がたくさん出てくるのもいいね。

 アニメシリーズでは妹「かえで」が「花楓」になる『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』がとにかく泣ける。いじめや不登校の問題は自分でも少し体験したからか、他人事に思えない。いつだってどこだって制度になじめない人はいて、その人が安心して生活できて勉強を続けられるようにするのは大人全員の役目だと思う。それを兄妹で乗り切ろうと少しずつ努力し、パンダ見に行くところからは号泣しかないです。

さて、映画の方はネタバレありです。というか、小説版からほとんど逸脱していません。すごくよくできているというのが最初の感想であり、一方で時間が足りないというのも強く感じる。アニメであったような軽口や何気ない日常のコマが入りきらなくて、もう少し事件以外のことがあるとよかった。それはそれとしてすごくよくできていて、アニメの時の小説が映像化されるわくわくをずっと感じられました。

この話で一番好きなのが言葉を繋いでいくところ。高校生の翔子さんが中学生の咲太に良い言葉を伝え、咲太は妹を守れなかった自分を責め続けるのを止めることができた。その言葉があるから咲太らしさがあり、それを病床の翔子ちゃんに伝えることで翔子ちゃんもまた救われる。ここはぐっときます。

小説版では今ひとつぴんとこなかった事故のシーンも、衝撃音やテンポのいい展開で分かりやすかった。分かりやすかったからこそ、咲太が麻衣を亡くした哀しみもさらりと流れていってしまい、もう少しだけあの絶望感を見せてほしかったと思います。原作では理央がずっと咲太の側にいて、普段なら「青春ブタ野郎」と罵る理央が甲斐甲斐しく咲太の面倒をみて、それでも咲太は立ち直れない。咲太だけでなく、アイドルから女優になろうとしていた麻衣を亡くした哀しみに多くの人が沈んでいる。沈み込みが深いほど、後の翔子さんの力が救いの強さにつながってくる。原作では翔子さんが導きはするものの、咲太を優しく叱るシーンがあります。「冗談も通じないような咲太君で、麻衣さんを幸せにできるんですか?」冗談に紛らせながら大事なことをきっちり決めてきたから咲太を応援してきた、その冗談がちょっと足りなかったんじゃないかなーと。

でも、アニメ版を見た人なら一度は映画館で見るべきです。東京では3館でしかやってないけど、観客はけっこういました。わたしももう一度アニメ版を通しで見ようと思います。

読み方チェンジ

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写真は本文と関係ありません。大きな苔玉

社会人になって本のおもしろさに目覚めたのは、インターネットで知り合った読書家たちのおかげで、まずはSFから入り、その後ラテンアメリカ文学マジック・リアリズムの虜になった。知らない世界を写実的に描写しながら、突然非現実的な事象が入り込んでくる不思議さ、スリルに魅了された。『百年の孤独』『緑の家』『ペドロ・パラモ』挙げればきりがないけれど、その背景には貧困も共感の要素としてあったと思う。本に恵まれなかった(何せ小学校の図書館には普段鍵がかかっていて入れなかった!)学生時代から社会人に至るまで、金銭的に楽な環境になったことがないから、つい貧しい人々を描いた物語に共感しがち。

 

そして数年前、「ラテンアメリカ文学は終わった」と自分の中でかたがついた。世間的には亡くなったけどボラーニョ・コレクションがあるし、白水社などからラテンアメリカ文学は継続的に出版されている。でも、自分にとってラテンアメリカはあまりにも遠すぎた。体力があるうちに行ってみたいと思ったことはあっても、当時存命だった猫を置いていくこともできず、そもそも海外旅行にふらりと行けるほど余裕もない。

 

気づくと、自分の読む速度がぐっと遅くなっていた。学生時代は小野不由美十二国記』なんて1日4冊くらいするりと読んでしまうくらいのスピードだったのが、加齢のせいか、はたまた注意深さなのか、1日1冊なんて全く夢のような話。もちろん、読んでいる本が変わったことも大きい。社会人になってから手に取った本の半数以上が翻訳書だけれど、未だに翻訳書を読む速度が上がらず、日本の小説の方が早く読める。これは内容の問題なのか、選ばれている言葉なのか。

 

それでも本を絶やしたことはなく、日々本を読んできた。趣味というよりは恐怖心が動機かも。本を読まないと何かに流されてしまうような気がする。口頭で応えるときは「頭が悪いのでこれ以上悪くならないように本を読み続けている」と言うだろう。次第次第に、小説から法律や経済、哲学などの本も手に取るようになった。同じサークルの哲学科の人に勧められて手に取ったベルグソン『笑い』は、学生当時さっぱり分からずその人へのコンプレックスにさえなったのに、今ひもといてみると分かるとは言わないまでもふむふむなるほどと苦痛にならずに読み進めることができる。もしかしたら当時は旧訳だったのかもしれないが、何年も本を読み続けているといわゆる読解力というやつが少しは発達しているようだ。

 

今はプルーストに取りかかっている。フランス文学なんて全く縁遠かったのにプルーストなんて。とっかかりは共和国から出た『収容所のプルースト』。単にプルーストを愛する学者の講義としても読める上に、参考文献どころか著書そのものも閲覧できない収容所で、記憶だけであの長大なプルーストを語るなんてことが人間にできることに感銘を受けた。それほどまでに人が愛するプルーストを一度は読んでみたい。しかし取りかかったはいいものの、一家族の細々としたことを読んで何がおもしろいのか。マドレーヌで記憶が押し寄せてくるのはいいが、押し寄せてくる記憶が読者のわたしにとって何の意味をもつのか。100年前の人の気持ちを生で受け止めるほどの器がないわたしには、プルーストと並行してプルーストが影響を受けた本も合わせて読むべきだ。そこで古本屋でいくらでも揃うだろうに、敢えて新刊書店でパスカル『パンセ』の上中下を買ってみた。1600年代のTwitterとも言うべき箴言が続々と並び、プルーストを放り出して読みふけってしまう。


若い頃はおもしろいと噂になった本を片っ端から読んでいったが、そろそろ読んでおくべき本を見いだしてそこにじっくり取りかかるべき時が来たようだ。

脳みそアップデート

低気圧で体調が悪くなりやすい。怠くて何もしたくなくなるから、いわゆる生産性というのもがた落ち。子どもの頃からずっとこうなので改善は諦めているけど、特に梅雨の季節などは困る。

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それでも何かとやらなければいけないことがあり、床屋なんていうのは伸びた分を切らなければならないから、引きこもっていたいのに出かけないといけない。床屋は若い人ばかりで活気があるけど、話を聞くといろいろ厳しい規則があったりするらしい。わたしには全く縁のない業界なので、話を聞くと興味深いけど、それはそうとして今話している美容師さんはまだ20代中盤くらいで随分と頭の良い話し方をする。「美容師は髪の毛を見せる職業なのに帽子を被ってるのはおかしい」「髪の色を染めているとひいてしまう客もいるので、自分では髪を染めない」とか、客層を見きわめて自分のスタイルを決めているという。すごい。

 

わたしが彼の年くらいの時に、あんなに物事を考えて行動していなかった。今でさえ会社の暗黙のルールに反して髪の色を染めようか企んでいるのに、会社の規則を考えつつ自分でも工夫している。元々のできの良さとかもあるけど、なんとなく全般的に若い人の方がクレバーな気がする。もちろん仕事場で無茶をして怒られたりする人もいるけど、わたしの時代はあからさまにならなかったりそれをおもしろく発信する手段がなかったこともあり、大きな問題に発展しなかった。社会の暗黙のルールを読み取って自分の行動に活かす力は、若い人の方が強いと感じる。

 

年輩の世代は自分たちの成功経験だけで話をしたがるけど、社会の動きについては鈍感になっているかもしれない。わたし自身、常に置いていかれているという恐怖感に怯えている。社会がわたしの知らないうちによりよくなっていて、悪い時代に生きていた自分の悪い考え方だけが残って下手な行動をしているのではないか。今読んでいる森分大輔『ハンナ・アーレント 屹立する思考の全貌』に、

 

私たちは何か罪を犯した場合に「赦し」を期待するが、それがいつ与えられるかを予見できない。「赦し」を与える者の意思に依拠するからである。「赦し」を請う者は謝罪すれば得られると錯覚しているが、自動的にそうなるのではなく、慣習的に期待されているに過ぎない。逆に、謝らなくても「赦し」が得られるケースですら、それほど珍しいものではない。

 

という。「赦し」が謝れば得られるという考え自体、もしかしたら過去の考え方かもしれない。インターネットではしょっちゅう誰かが誰かを非難して、謝るべき人が謝らずに自分の正しさを喧伝し続けているように思える。おそらく自分の正しさを大声で主張し続けると大衆は迎合するというのは、ナチスあたりから続くやり口なのだろう。でも、ふつうの人たちはどんどん頭が良くなってきて、それゆえに戦うことがかっこわるく見えて、分断がどんどん進んでしまうのかもしれない。若い人たちは脳みそアップデートが進んで、というか幼少時から良いOSで動いているようにさえ思える。わたしたちがそろばんや電卓のところ、生まれた時からWindowsXPあたりが走っていると単純に考えると勝ち目ないよね。非力なアップデートでも続けていくしかない。

若い人たちが妙に頭がいいように思えるのはそういうことか、と思った雨の日の午後でした。

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なんとなく生活ぽいことを書いていきたい

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苔類の蒴

Twitterでは本や苔のことを書いています。ここではちょっとちがうことを書いていきたいし、長く書くことの練習もしていきたい。編集者を目指していたのですが、とにかく文章を書くのが苦手で、あちこち迷走してしまうのはもちろん、書くことに飽きてしまうことがよくあります。自分を客観的に見るのが苦手なせいかもしれません。

 

書いてみたいことその1は料理について。一時期料理に凝ったとはいえ、それほど複雑なものは作れません。ふつうの家庭料理(特に酒の肴)についてはレシピがなくてもそれなりに作れるようになったので、最近はいかに手を抜くかを意識しています。単純にいうと、お総菜でもいいよねってこと。お総菜でとれない栄養を自分の料理で補うようにしています。先週は唐揚げをトースターで焼いているうちにベビーリーフを使ってサラダを作れば10分くらいで準備できることに気づくことができました。

 

書いてみたいことその2は楽に生きていきたいということ。喧嘩したくないし、最近では喧嘩している映像を見るのもつらくなってきたので、映画を見ることがかなり減りました。特に男性が威嚇する声を出すのが苦手。元々大きい音が苦手なことも影響しているのかもしれません。喧嘩せずに楽に生きていくにはどうしたらいいのか。ある程度先回りしてもめ事になる前に鎮火させることが大事なのかなあと思っています。先回りしすぎると疲れてしまうので、楽に先回りする方法を思いついたら書いてみたい。

 

いわゆる就職氷河期世代なので楽に生きていくことは大変です。たぶん、他の同世代はもっと楽に生きられた人の方が多いんじゃないかなというくらい、派遣社員契約社員を経験してきた。自己責任という言い方は「恵まれた環境の人にとってはすらりと言えることかもしれないけど、家から半径5km以内に書店・図書館・学校がない、文化果つる場所で18年育つハンディってものがあるんですよ」としか思わない。誰もがみんな良い身分になれるわけではないけど、少しずつ協力したり分け合ったりして世の中が良くなったらいいのになあと思っています。

 

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富士山に生えるカラマツ?

富士山は活火山で一時期は草や木が生えていなかったはず。火山岩だらけのところに苔が生え、苔の塊を利用して木が芽を出し、大きく育った木に地衣類がぶら下がる。江戸時代くらいからそんなサイクルが始まって、今では5合目以下はすっかり鬱蒼とした森になっています。植物さえ(地衣類は菌類に近いですが)協力して大きく育つことができるのだから、知恵のある人間はもっと喧嘩を減らし、協力していろいろな豊かさを享受できるようになったらいいなあと思います。