脳みそアップデート

低気圧で体調が悪くなりやすい。怠くて何もしたくなくなるから、いわゆる生産性というのもがた落ち。子どもの頃からずっとこうなので改善は諦めているけど、特に梅雨の季節などは困る。

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それでも何かとやらなければいけないことがあり、床屋なんていうのは伸びた分を切らなければならないから、引きこもっていたいのに出かけないといけない。床屋は若い人ばかりで活気があるけど、話を聞くといろいろ厳しい規則があったりするらしい。わたしには全く縁のない業界なので、話を聞くと興味深いけど、それはそうとして今話している美容師さんはまだ20代中盤くらいで随分と頭の良い話し方をする。「美容師は髪の毛を見せる職業なのに帽子を被ってるのはおかしい」「髪の色を染めているとひいてしまう客もいるので、自分では髪を染めない」とか、客層を見きわめて自分のスタイルを決めているという。すごい。

 

わたしが彼の年くらいの時に、あんなに物事を考えて行動していなかった。今でさえ会社の暗黙のルールに反して髪の色を染めようか企んでいるのに、会社の規則を考えつつ自分でも工夫している。元々のできの良さとかもあるけど、なんとなく全般的に若い人の方がクレバーな気がする。もちろん仕事場で無茶をして怒られたりする人もいるけど、わたしの時代はあからさまにならなかったりそれをおもしろく発信する手段がなかったこともあり、大きな問題に発展しなかった。社会の暗黙のルールを読み取って自分の行動に活かす力は、若い人の方が強いと感じる。

 

年輩の世代は自分たちの成功経験だけで話をしたがるけど、社会の動きについては鈍感になっているかもしれない。わたし自身、常に置いていかれているという恐怖感に怯えている。社会がわたしの知らないうちによりよくなっていて、悪い時代に生きていた自分の悪い考え方だけが残って下手な行動をしているのではないか。今読んでいる森分大輔『ハンナ・アーレント 屹立する思考の全貌』に、

 

私たちは何か罪を犯した場合に「赦し」を期待するが、それがいつ与えられるかを予見できない。「赦し」を与える者の意思に依拠するからである。「赦し」を請う者は謝罪すれば得られると錯覚しているが、自動的にそうなるのではなく、慣習的に期待されているに過ぎない。逆に、謝らなくても「赦し」が得られるケースですら、それほど珍しいものではない。

 

という。「赦し」が謝れば得られるという考え自体、もしかしたら過去の考え方かもしれない。インターネットではしょっちゅう誰かが誰かを非難して、謝るべき人が謝らずに自分の正しさを喧伝し続けているように思える。おそらく自分の正しさを大声で主張し続けると大衆は迎合するというのは、ナチスあたりから続くやり口なのだろう。でも、ふつうの人たちはどんどん頭が良くなってきて、それゆえに戦うことがかっこわるく見えて、分断がどんどん進んでしまうのかもしれない。若い人たちは脳みそアップデートが進んで、というか幼少時から良いOSで動いているようにさえ思える。わたしたちがそろばんや電卓のところ、生まれた時からWindowsXPあたりが走っていると単純に考えると勝ち目ないよね。非力なアップデートでも続けていくしかない。

若い人たちが妙に頭がいいように思えるのはそういうことか、と思った雨の日の午後でした。

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